1982年7月 長崎市に突然の集中豪雨が街を襲った。
街が豪雨に呑まれるくらいの大雨量を記録した大水害。のちに【7・23長崎大水害】と名付けられた。
長崎市から離れている諫早市にいた僕は、喫茶アメリカンで店番をしながら、けたたましく報道されるTVの特別番組で事の成り行きを見守るしかなかった。
翌日になっても、その特別番組からは数々の悲惨な長崎が映し出され続ける。
魔の豪雨は長崎に痛たましい爪痕を残した後ようやく去っていった。
信じられない事にニュースや新聞では、この大水害で犠牲になった死者と行方不明者の数、299人という非情な数字を打ち出していた。
長崎へ
衝撃的な報道に不安が駆け巡った。
みんな大丈夫なのだろうか?
長崎の被災状況をこの目で確認したかったのと
仲間の安否が気になってしょうがなかったので
心配でいてもたってもいられなくなった僕は
その頃の愛車フェアレディZに飛び乗り
諫早市から長崎市へとアクセル踏み込み走らせた。
足止め
長崎市から北の方面に位置する諫早市から長崎市へ移動するには、ひと山越えなければならない。
1ミリでも先へと心走らせるのだが、矢上方面の途中でそれは無情にも、ひとつの標示が目の前に立ちはだかっていた。
【通行止め】
ここから先は
復旧工事作業で入れないとの標示
が行く手を遮っていた。
日見
さあ、困った。
完全に足止めをくらった。
どうしようか。
引き返すしかないのか・・。
あれ?ここは矢上?
という事はここらへんは日見やないか。
日見といえば正樹の住んでるテリトリーだ。
早速連絡した。
正樹の家はあまり被害はなかったみたいで胸を撫で下ろした。
長崎市へ入れずどうしようもない僕はその日は正樹の家にお世話になることになった。
翌日になると、その日見地区のまた近くに住んでる太郎、
オットプロジェクトのボーカル太郎の家に泊まらせてもらう事になった。
その何日か後には、また誰かの家に転がりこんでいた。
長崎大水害の日を境に、僕はいつの間にか、仲間の家を転々と転がりこむ【ジプシー民族】と化していた(汗)
またまた何日か過ぎたあと、僕はヤマジュンの住む田中荘に居座っていた。
ヤマジュン
帰ろうと思えば帰れるのに、なぜこういう民族と化したのか…。
無事を確認できた仲間達と居たかったし、とにかく帰りたくなかった。
そして、長崎にいれば何か素晴らしい事が始まると本能が予感してたとしかいいようがない。
それはのちに本当に運命が導いてくれる事になるのだが。
その事にも深く関わりがあるヤマジュンの話をしばらくしたいと思います。
ヤマジュンは、巷では少しばかり有名なハードロックバンド「蘭丸団」を率いて活動していた。
そのヤマジュンが、僕がやっているハードロックバンド【グランドクロス】のライブに来てくれてて、僕のツーバスで叩くドラム姿を見てくれてたのだ。
to be continued・・